| <メッセージ> |
| ●自己理解 |
| あなたは、自分のことをどう思っていますか。 |
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| 自分を良く知ること、しっかりした自己理解を持つことは、とても大切です。 |
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| 正しい自己理解を持っているかということは、普段はあまり意識していません。 |
| でもそれは自分の行動を引き起こす源なのです。 |
| 人間関係に表れ、自分の生き方を支配し、自分の人生を左右します。 |
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| ●自信のある人 |
| 自信たっぷりの人がいます。 |
| その人は、自分の考えは正しい、自分のすることは正しいと思っています。 |
| おそらくこれまで大きな失敗をしたことがないのでしょう。 |
| 日の当たる道を歩いてきたのです。 |
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| こういう人はどうしても支配的になります。 |
| 自分が正しいと思っているその量りで人を量ります。 |
| そして自分の思い通りに人を動かそうとします。 |
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| ●自分はだめだ |
| 自分はだめだ、だめだ、と思っている人がいます。 |
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| 自分を量る量りは、自分のあるべき理想の姿です。 |
| 自分の理想に到達していない自分をだめだと思います。 |
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| 人からいつも叱られてばかりいて、「だめなやつ」と言われて、そういう目線で |
| 見られて、自分はだめなんだと思い込んでいる人がいます。 |
| これまで失敗ばかりしてきたのでしょう。 |
| 心が萎縮して何かをするのがこわいです。 |
| またうまくいかないのではないか、失敗するのではないか、また人から責めら |
| れるのではないかと、いつもびくびくしています。 |
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| ●分けられない |
| 人は自分について色々に思っていますが、人を優越感を持っている人、劣等 |
| 感を持っている人と、2通りに分けることはできません。 |
| 人はこの2つのあいだを行ったり来たりしています。 |
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| 優越感と劣等感は正反対の感情と思われていますが、そうではありません。 |
| 根っこは同じです。 |
| 両方とも自分を量る量りが人なのです。 |
| 人と比べて自分を評価しているのです。 |
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| 優越感を持っている人は、自分より下と思う人に対して優越感を持ちますが、 |
| 自分より優れている人に対しては非常な劣等感を持ちます。 |
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| 劣等感を持っている人は、自分より優れていると思う人に対しては卑屈とも思 |
| えるほどの劣等感を持ちますが、自分より下だと思う人に対しては強烈な優越 |
| 感を持ちます。 |
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| いずれも人を量りとして自分を量っているのです。 |
| 心はいつも不安定です。 |
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| ●パウロの言葉 |
| そのような私達にパウロは言います。 |
| 「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった |
| 信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」 |
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| 「自分を過大に評価してはなりません。」 |
| は口語訳では |
| 「思うべき限度を越えて思いあがることなく」 |
| と訳されています。 |
| 自分について当然そう思うべき限度を越えて思い上がらないように、ということ |
| です。 |
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| 「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべき |
| です。」 |
| は口語訳では |
| 「神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきであ |
| る。」 |
| です。 |
| 「慎み深く思う」というのは、「慎み深く思えるようになるまで、深く思い見る」とい |
| うことです。 |
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| ここで言っている「慎み深い」は、私達が思い描く謙遜とは違います。 |
| 「謙遜する」のイメージは、「いえいえ、とんでもありません。わたしなどとてもと |
| ても」 |
| といった感じでしょう。 |
| 相手の自分に対する評価に対して、自分はそれほどでもない、と言うのです。 |
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| ここで言っている「慎み深い」は、前に出ずに下がったところに自分を置くことと |
| も違います。 |
| 日本の文化の中で美徳とされてきた慎ましやかさではないのです。 |
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| ●神を量りとする |
| 聖書の言葉は決定的に違います。 |
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| 自分を量る量りが違うのです。 |
| 人を量りとしないのです。 |
| 神様を量りとするのです。 |
| 自分を自分自身や他の人の前に置くのではない、 |
| 自分を神様の前に置くのです。 |
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| 「信仰の度合いに応じて」とあります。 |
| 口語訳では |
| 「信仰の量りにしたがって」 |
| です。 |
| 「量り」「度合い」と訳されている言葉はギリシャ語ではメトロンです。 |
| これが英語になってメーターになりました。 |
| 「電気のメーター」というように、私達も普通使っている言葉です。 |
| 「量り」「物差し」という意味から広がって、量った分量も表す言葉になりました。 |
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| 「信仰の度合いに応じて」と言われると、私達は、信仰を量るメーターがあって、 |
| 「あなたの信仰は大きい。」「あなたの信仰は小さい。」と量られるのだと思いま |
| す。 |
| 「あの人は深い信仰を持っていてすばらしい」「あの人はまだ信仰が浅い」と言 |
| ったり、思ったりする私達です。 |
| ですから、神様は一人一人の信仰を量って、その人の信仰の量−多い、少な |
| いによって人を判断されるのだ、と思うのです。 |
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| だから、自分の信仰の量はこれだけなのにそれ以上だと思って、自分を過大に |
| 評価してはいけないのだ、 |
| 自分の信仰の量をよくわきまえて、慎み深く自分を評価するのだ、 |
| と思います。 |
| そして「わたしは信仰が浅いから、そんなお役はできません。」と言うのです。 |
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| ●賜物 |
| けれどそうではありません。 |
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| 確かに神様は一人一人を量られます。 |
| けれど神様の量りには目盛りがありません。 |
| 数値によって判断することをなさらないのです。 |
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| 神様の量りには、愛としか刻まれていません。 |
| 神様は御子をくださるほどに、一人一人を愛してくださっているのです。 |
| この人を生かすためにどうすれば良いのか、一人一人を量り、それぞれに応じ |
| た扱いをしてくださいます。 |
| その人その人にふさわしい賜物を分け与えてくださいます。 |
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| ●一つの体 |
| このことは、「というのは」という言葉で始まる4節以下の説明によってわかりま |
| す。 |
| 「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべ |
| ての部分が同じ働きをしていないように、 |
| わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自 |
| は互いに部分なのです。 |
| わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていま |
| す」 |
| と説明されています。 |
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| コリントの信徒への手紙ではもっと丁寧に説明しています。 |
| 「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 |
| 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の |
| 一部でなくなるでしょうか。 |
| 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の |
| 一部でなくなるでしょうか。 |
| もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにお |
| いをかぎますか。 |
| そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 |
| すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 |
| だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 |
| 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お |
| 前たちは要らない」とも言えません。」 |
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| 私達は、キリストに結ばれて一つの体を形づくっています。 各自は互いの部 |
| 分です。 |
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| ●賜物−恵み |
| 「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていま |
| す」とあります。 |
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| 私達はそれぞれに異なった賜物を持っています。 |
| それは神様が恵みとして与えてくださったものです。 |
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| 賜物は、ギリシャ語ではカリスマと言います。 |
| これも日本語になっている言葉です。 |
| カリスマ美容師とか、カリスマ的存在だ、と言います。 |
| 一般に使われるときは、その人が並外れた才能や力を持っていることを言い |
| ます。 |
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| けれどそうではありません。 |
| カリスマはカリスという言葉から来ています。 |
| カリスは恵みという意味です。 |
| 賜物カリスマは神様の恵みなのです。 |
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| カリスマ自身が恵みの贈り物という意味を持っているのに、さらに「与えられた |
| 恵み」と重ねて言っています。 |
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| ●賜物をいただいている |
| 神様は私達一人一人に賜物をくださっています。 |
| 恵みをくださっています。 |
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| あなたができることがあります。 |
| それはあなた自身が持っている資質ではありません。 |
| あなたが持っている能力ではありません。 |
| 神様がくださった恵みの賜物です。 |
| 私達は神様がくださる賜物を信じて受け入れるのです。 |
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| 神様は一人一人にその人に応じた賜物をくださっています。 |
| 神様がくださっている信仰の力を越えて無理な背伸びをすることはありません。 |
| けれども、神様がくださっている力を出し惜しみすることがあってはなりません。 |
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| 神様がこのことができる力をくださっていると思えるかどうかは、あなたと神様と |
| の間だけの問題です。 |
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| ●パウロ |
| パウロは今日の箇所の最初に |
| 「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。」 |
| と命じています。 |
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| パウロはローマ書の最初に |
| 「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となった |
| パウロから、―― |
| わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従 |
| 順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」 |
| と言っています。 |
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| ガラテヤ書の最初には |
| 「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中 |
| から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、」 |
| とあります。 |
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| パウロは神様からいただいた恵みによって使徒とされたのでした。 |
| パウロはその賜物−使徒とし生きます。 |
| 福音を告げ、人々に勧め、人々を戒めます。 |
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| ●賜物をいただいて |
| 「預言の賜物を受けていれば、預言し、 |
| 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念し、 |
| 勧める人は勧めに精を出し |
| ・・・ 」 |
| と続いていきます。 |
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| 私達も、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。 |
| 私達は与えていただいた賜物を精一杯生かして働きます。 |
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| もう優越感は持ちません、何かができるのは神様の力なのですから。 |
| もう劣等感を持ちません、神様がわたしにわたしだけの賜物をくださっているの |
| ですから。 |
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| 何かができるからと思い上がることはありません、 |
| 人からほめられたら |
| 「いえいえ、とんでもありません。」 |
| と謙遜することはしません。 |
| 謙遜するのは、自分がしたと思っている現れです。 |
| 「ありがとう。神様のしてくださったことです。」 |
| と神様をたたえます。 |
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| 自分でだめだ、できないと、決めつけることをしません。 |
| 神様はできることをさせてくださるのです。 |
| 目一杯、神様に用いていただきます。 |
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| 私達はキリストの一つの体、一人一人は大切な部分です。 |
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| ●キリスト |
| 神様が、私達全員にくださっている最も大きな賜物、それは何ですか。 |
| それはイエス・キリストです。 |
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| 私達はみんな、神様の恵みによって、キリストの贖いを、無償で、ただで、何の |
| 代価も払わずに、いただいたのでした。 |
|
| 私達はキリストによって、キリストのからだに結んでいただいたのです。 |
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| ●結語 |
| 喜びが湧いてきます。 |
|
| ありがとうございます。 |
| キリストをくださった主の愛、主の恵みに感謝します。 |
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