| <メッセージ> |
| ●復習 |
| 追われるようにユダヤを離れガリラヤに向かうイエス様、旅に疲れ渇いておら |
| れるイエス様と、人目を恐れながらも生きるために水を汲み続けなければなら |
| ない女が、サマリアの井戸端で出会いました。 |
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| イエス様はこの女に渇くことのない水をあげることがお出来になります。 |
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| イエス様は言われます。 |
| 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決 |
| して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水 |
| がわき出る。」 |
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| 女は言います。 |
| 「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水を |
| ください。」 |
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| ●尋ねる |
| イエス様は彼女に、渇くことのない水をあげる、と決められました。 |
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| そのためにまずイエス様がなさったことは、彼女に尋ねることでした。 |
| 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」 |
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| 彼女は言います。 |
| 「わたしには夫はいません」 |
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| イエス様は言われました。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなた |
| には五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありの |
| ままを言ったわけだ。」 |
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| ●女の人生 |
| これまでの彼女の人生に何があったのかがわかります。 |
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| 五人の夫がいたというのです。 |
| 結婚して離婚してが、5回繰り返されたということです。 |
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| 今の時代から考えてはなりません。 |
| 今は男も女も自由に離婚できます。 |
| けれどこの時代はそうではなかったのです。 |
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| 男の方からは,気に入らなければすぐに離婚することが出来ました。 |
| 妻がお鍋を焦がした、というだけで離婚の理由になるのです。 |
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| けれど妻の方から離婚する手立てはありませんでした。 |
| そういうことを考えたこともない、だからその手立てもないという社会なのです。 |
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| 彼女は5回も、「おまえが悪い」と言われて男から捨てられたのでした。 |
| その彼女を簡単に妻にする男達がいたということです。 |
| 気に入らなくなれば離婚すればいいのですから、気軽なものです。 |
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| あるいはこういうことも考えられます。 |
| 最初の夫が死んだら、残された妻は兄弟が娶るという制度がありました。 |
| そうだとすれば、彼女は5回も夫と死に別れたということになります。 |
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| いずれにしても、彼女はつらいつらい人生を生きなければならなかったのです。 |
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| そして今は夫ではない人と連れ添っています。 |
| 今と時代が違います。 |
| 女一人では生きていけない社会なのです。 |
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| ●冷たい目 |
| その様に生きるほかはなかった彼女に向けられた人々の目は冷たいものでした。 |
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| 「ふしだらな女だ」と悪口を言われました。 |
| 「あの女に関わると不幸なことが起こる」 |
| と除け者にされ、無視されてきました。 |
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| 彼女自身も、責められとがめられるうちに、自分が悪いんだ、自分はふしだらな |
| 女だ、自分は人を不幸にする、と思うようになっていました。 |
| つらい、悲しい、苦しい思いを、ひとり自分の胸の内に押し込んで生きてきた彼 |
| 女でした。 |
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| ●イエス様は知っておられる |
| イエス様は彼女のことを何もかもご存じでした。 |
| イエス様はこれまでのことを根掘り葉掘り聞くことをなさいません。 |
| ただ、胸の内に閉じ込めている苦しみを彼女自身が見るようにと、言葉をかけ |
| られます。 |
| そして彼女が呼び起こした彼女の胸の内を |
| 「わかっているよ」とまるごとそのまま受け取ってくださったのでした。 |
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| ●私達 |
| 私達も色々なことに出会いながらここまで生きてきました。 |
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| 成功した人生を生きてきた方もおられるでしょう。 |
| 自分は努力してきた、 |
| がんばってきた、 |
| それで望んでいた人生を歩むことが出来た、と思っておられるかもしれません。 |
| 自分に満足して、自分のやり方は正しかった、自分の考え方は正しかった、自 |
| 分のやり方、考え方には間違いはない、自分は正しい人間だと思うのです。 |
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| でも心の一番奥にある思いに気付かないでいるのではありませんか。 |
| 本当の自分を知らないでいるのではありませんか。 |
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| つらいこと、苦しいこと、悲しいことがたくさんある人生を生きてきた方もおられ |
| るでしょう。 |
| つらい、苦しい、悲しいことを心の内にしまい込んで、元気に振る舞ってきました。 |
| 人は外側を見ます。 |
| あの人は何の問題もなく幸せに暮らしている、と思っています。 |
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| 自分でも自分の心の傷を忘れて生きてきました。 |
| でも人にも自分にも隠している本当の自分がいるのです。 |
| 一番奥にしまい込んだ心は今も痛んでいます。 |
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| ●自分を知る |
| イエス様は私達一人ひとりのすべてをご存じです。 |
| 自分で気付かないでいる本当のわたしを見ておられるのです。 |
| そこのところで関わってくださるのです。 |
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| イエス様がわかってくださっていると知った時、私達は自分を見ることが出来ま |
| す。 |
| それまでは自分を見ようとしてこなかったのです。 |
| 恐ろしいからです。 |
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| でもイエス様がすべてを知っていてくださるとわかった時、安心して自分を見つ |
| めることが出来るようになります。 |
| わたしがどんなであっても捨てられることはないのですから。 |
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| ありのままの自分を知ります。 |
| ありのままの自分でいられます。 |
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| ●安心 |
| イエス様は「わたしには夫はいません」と言った女に |
| 「あなたはありのままを言ったわけだ」と言われました。 |
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| 『ありのままのわたしを受け取ってくださる』 |
| 彼女はイエス様を他のだれとも違うお方だと感じました。 |
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| 今までに味わったことがない安心でした。 |
| 暖かいものが心に広がっていきました |
| 彼女は、はじめて本当の神様の愛に触れたのでした。 |
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| ●礼拝したい |
| 彼女は心から神様を礼拝したいと思います。 |
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| どこで、どのようにしたら、今わたしを包んでくださっている神様を礼拝できるだ |
| ろうか。 |
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| 彼女はイエス様に尋ねます。 |
| 「わたしはどこで神様を礼拝したらいいのでしょうか。」 |
| 「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場 |
| 所はエルサレムにあると言っています。」 |
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| ユダヤ人とサマリア人との隔てについては、先週お話ししました。 |
| 神様を礼拝することにおいてさえ対立がありました。 |
| いや、むしろ、一つになって礼拝できないことが、隔てを産む原因になっていた |
| のです。 |
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| ●イエス様がおられるところ |
| イエス様は言われます。 |
| 「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない |
| 所で、父を礼拝する時が来る。」 |
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| イエス様が来られたのです。 |
| イエス様はすべての人を救うために来られたのです。 |
| 人が作り上げたあらゆる隔てを壊されます。 |
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| イエス様がおられるところ、そこが礼拝するところです。 |
| どこででも、礼拝することが出来ます。 |
| イエス様は、すべての人の所に来てくださっているからです。 |
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| ●まことの礼拝 |
| イエス様は来てくださいました。 |
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| イエス様は今、ここにおられます。 |
| イエス様は言われます。 |
| 「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今が |
| その時である。」 |
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| 今、私達は霊と真理をもって礼拝します。 |
| なぜなら、神様が霊と真理をもって礼拝する者を求めておられるからです。 |
| 他の理由は何一つありません。 |
| 一切ありません。 |
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| ●霊を持って |
| 私達は霊をもって礼拝します。 |
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| 「神は霊である」とあります。 |
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| 神様は霊だから、私達も霊的な礼拝をしなければいけない、と受け取ると、間 |
| 違いを犯しそうです。 |
| わたしを肉と霊に分けて、精神とか心の部分で礼拝するのだ、と思ってしまいそ |
| うなのです。 |
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| もちろん外面的に、儀式として、かたちだけで礼拝してはなりません。 |
| からだはここに居るけれど心はどこかに行ってしまっている、自分の考え事して |
| いるということがあってはなりません。 |
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| 全身全霊を持って礼拝を献げるのです。 |
| ただ神様だけを見て礼拝を献げるのです。 |
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| けれども、「霊をもって礼拝する」という時、霊は私達人間の霊ではありません。 |
| 神の霊です。 |
| 神様の霊によって、神様の霊の中で、神様の霊をいただいてここにわたしが居 |
| る、それが礼拝です。 |
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| ●真理を持って |
| 「真理をもって礼拝する」とはどういうことでしょうか。 |
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| わたしが真理を悟って、真理を理解して、真理をわきまえて、礼拝するというこ |
| とではありません。 |
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| 真理とは何ですか。 |
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| 「真理」という言葉は抽象的な感じがします。 |
| 私達は、「真理」を哲学的というか、観念的なものとして捕らえています。 |
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| でもそうではありません。 |
| 今日のイエス様の言葉によって、そうではないことを教えられます。 |
| 18節に |
| 「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、 |
| ありのままを言ったわけだ。」 |
| とあります。 |
| 23節に |
| 「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来 |
| る。」 |
| とあります。 |
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| 18節の「ありのままの」、23節の「まことの」と「真理」、この3つは同じ言葉から |
| つくられています。 |
| 「ありのままの 」 アレーセース |
| 「まことの」アレーシノス |
| 「真理」アレーセイア |
| |
| 同じ音が聞こえてくるでしょう。 |
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| これらの言葉のおおもとはレーセーオーです。 |
| この言葉は「隠されている」「気付かれないでいる」という意味です。 |
| その前に a がついています。 |
| aは否定を表します。 |
| アレーセース |
| アレーシノス |
| アレーセイア |
| となって |
| 「隠されていない」「気付かれないでいない」すなわち「気付いている」という意 |
| 味になります。 |
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| ●隠さない |
| 真理をもって礼拝する」ということは、隠されていない状態で、気付いている状 |
| 態で、ということです。 |
| 自分を隠さない、ということです。 |
| ありのままのわたしで礼拝する、ということです。 |
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| 神様の前に出るには正しい自分でなければならない。 |
| こんな自分で神様の前に出られない。 |
| こんな自分を神様に知られるのは恥ずかしい。 |
| と思う必要はありません。 |
| ありのままのわたしで神様の前に出るのです。 |
| |
| 実際神様の前に自分を装ってみて何になるのですか。 |
| 神様はすべてをご存じのなのです。 |
| それなのに自分を装うならば、あなたは真理をもって礼拝していない、と神様 |
| に言われます。 |
| |
| ●ご自分を現された神 |
| そして、神様もご自分を隠すことをなさいません。 |
| イエス・キリストによって、ご自分を現されました。 |
|
| イエス様が来られる前は、神様の思い、神様の御計画、神様の愛が、私達人 |
| 間にはよくわかりませんでした。 |
| それは隠されていたのです。 |
|
| しかしイエス様が来られました。 |
| イエス様は、それまで私達人間に隠されていた神様の思いを、見える形で現し |
| てくださいました。 |
| イエス様は十字架にかかってすべての人々のすべての罪を贖ってくださったの |
| です。 |
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| キリストの出来事を通して、今私達は神様の救いの御計画を、はっきりと知るこ |
| とが出来ます。 |
|
| キリストによってご自分を現された神様と、ありのままのわたしが向き合う、 |
| それがまことの礼拝です。 |
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| ●結語 |
| イエス様の声が聞こえています。 |
| 「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今が |
| その時である。」 |
| 「父はこのように礼拝する者を求めておられる。」 |
| |
| 私達は、神様の霊をいただいて、今ここに居ます。 |
| 自分を隠してきた衣をすべて脱ぎ捨て、ありのままの自分でいます。 |
|
| イエス・キリストが来てくださいました。 |
|
| すべてを受け入れてくださっているイエス様の愛に包まれて、主を礼拝していま |
| す。 |
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