| <メッセージ> |
| ●愛を身につけなさい |
| コロサイの信徒に宛てられた手紙を、私達運河教会に宛てられた手紙として読み |
| 進めています。 |
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| 今日の箇所には「〜しなさい」という言葉がたくさん並んでいます。 |
| その中心は14節の「愛を身に着けなさい。」です。 |
| 「愛は、すべてを完成させるきずな」なのです。 |
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| ●律法ではない |
| 「〜しなさい」を、律法的に捕らえてはなりません。 |
| 「している」「していない」を基準にして、自分をはかったり、人を裁いたり |
| してはなりません。 |
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| ●聖なる者とされている |
| 私達は、神様に選ばれ、聖なる者とされているではありませんか。 |
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| 人々より先に、神様が私達を愛してくださっているということを知ることが、 |
| 「聖なる者」とされるということです。 |
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| 私達は神様がすべての人々を愛してくださっていることを知っているのです。 |
| 私達は神様に愛されているのです。 |
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| 「あなたは神様に愛されているのだから、こういう風に生きていこうね」と、生き |
| 方を示してくれているのが今日の箇所です。 |
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| ●愛 |
| まず「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」と勧められて |
| います。 |
| これらすべては、愛があってこそ生まれてくるものです。 |
| 愛の具体的なあらわれが、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容だと言うことも |
| 出来るでしょう。 |
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| まず神様が私達を、そしてすべての人々を愛してくださいました。 |
| この事実は、イエス・キリストによって地上にあらわされています。 |
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| ●イエス・キリスト |
| 地上に生きられたイエス様を思い出しましょう。 |
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| イエス様は、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けておられました。 |
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| ●イエス様は憐れまれる |
| 「憐れみ」を動詞にしたスプラグクニゾマイは、イエス様、神様が憐れまれる時 |
| だけに使われる動詞です。 |
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| イエス様は、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているの |
| を見て深く憐れまれ、パンの奇跡を行われました。 |
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| 重い皮膚病の二人を深く憐れんで、その人達に触れて癒されました。 |
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| 一人息子が死んで悲しむ母親をご覧になって憐れに思い、息子を生き返らせられ |
| ました。 |
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| イエス様に「憐れんでください」と頼む盲人を深く憐れんで、見えるようにされ |
| ました。 |
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| 「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と頼む父親に |
| 「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言って癒されました。 |
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| 譬え話の中にも3回使われています。 |
| 借金を返せない家来の主人は憐れに思って 彼を赦し、その借金を帳消しにして |
| やった。 |
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| 放蕩息子の譬え話の中で、ぼろぼろになって帰ってきた息子を見つけた父は、 |
| 憐れに思い走り寄って接吻した。 |
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| 良きサマリヤ人のたとえに、「サマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れ |
| に思い」とあります。 |
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| 譬え話で神様、イエス様をあらわしている箇所に使われているのです。 |
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| イエス様は、まことに人を深く憐れむお方でした。 |
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| ●イエス様は慈愛 |
| イエス様は慈愛に富んだお方でした。 |
| ヨハネによる福音書13章には |
| 「過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来た |
| ことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」 |
| と記されています。 |
| すでにイエス様を裏切る考えを抱いているイスカリオテのユダ、やがてイエス様を捨 |
| てて逃げてしまう弟子達すべての足を洗われたのです。 |
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| ●イエス様は謙遜 |
| イエス様は謙遜の極みでした。 |
| フィリピの信徒への手紙2章には |
| 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わ |
| ず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間 |
| の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」 |
| と記されています。 |
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| ●イエス様は柔和 |
| イエス様は柔和なお方でした。 |
| イエス様は言われます。 |
| 「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 |
| わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれ |
| ば、あなたがたは安らぎを得られる。」 |
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| ●イエス様は寛容 |
| イエス様は寛容なお方でした。 |
| 「寛容」と訳されている言葉には、忍耐、辛抱という意味もあります。 |
| イエス様はどれほど忍耐し続けられたことでしょうか。 |
| 人々の無理解、弟子達の裏切り、肉体が裂かれる苦しみを耐えて耐えてこられたの |
| です。 |
| その苦しみのただ中で、イエス様は |
| 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 |
| と祈られたのでした。 |
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| ●イエス様に愛されているから |
| 私達はこのイエス様の愛によって愛されているのです。 |
| 赦していただいているのです。 |
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| ですから、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさいね」と勧めら |
| れているのです。 |
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| ●赦し合いなさい |
| けれども、これらを身につけるのは何と難しいことでしょうか。 |
| もし憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけることが出来れば、すべての |
| 人々と平和に暮らしていけるでしょう。 |
| けれど実際には、私達は人間関係で苦しむのです。 |
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| ですから |
| 「3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。」とあるの |
| です。 |
| 「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」 |
| とあります。 |
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| ●赦すとは損失を負うこと |
| この言葉にたじろぎます。 |
| わたしは主がしてくださったように赦すことが出来ません。 |
| イエス様は、わたしを赦すためにご自分の命を捨てられたのです。 |
| わたしには出来ません。 |
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| でも、よく考えてみると「赦す」という事には必ず損失を自分が負うということが |
| 含まれていることに気付きます。 |
| 誰かが誰かに害を加えます。 |
| 赦すことができるのは、害を受けた側の人です。 |
| 害を受けた人が害を与えた人を赦すのです。 |
| 「赦すということは、なかったことにすることではありません。 |
| マイナスを自分が負うということです。 |
| そこには痛みがあるのです。 |
| 痛みを自分が引き受けるのです。 |
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| 私達はイエス様のようには出来ません。 |
| でも、イエス様の命と引き替えに神様に赦していただいていることを思うとき、少 |
| しずつ痛みを引き受けることができるようになるのではないでしょうか。 |
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| ●愛はすべてを完成される |
| 憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、だけが愛ではありません。 |
| 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても赦し合うことも「愛」に含まれてい |
| ます。 |
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| 「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」 |
| とあります。 |
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| 愛を身につけたいです。 |
| 「身につける」は「着る」という言葉です。 |
| わたしは愛に欠ける人間です。 |
| そんなわたしに、神様がキリストの愛を着せてくださるのです。 |
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| すべての人がキリストの愛を着せていただいて、すべての人々が結び合わされて |
| いくのです。 |
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| ●愛するということ |
| さあ、「愛を身につけなさい」という勧めに従って生きるように努めましょう。 |
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| 「愛する」ということは、「相手を大切に思う」ことです。 単に「好きだ」と |
| いう感情的なものではありません。 |
| 相手を大切だと思えば、自分の感情や考えを相手に押しつけることはしないでし |
| ょう。 |
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| 愛は、相手を知ることから始まるのです。 |
| 相手が何をどう感じているか、どう考えているのか、を知る。 |
| そしてそれをそのままに受け取ることです。 |
| たとえそれが間違っていても、ある場合は危険なものであっても、自分の考えや |
| 感じ方と違っていても、そのままにまず受けとるのです。 |
| 言葉で表されている事柄を受け取るのではなく、語る事柄の奥にあるその人の心 |
| を深く深く、理解するのです。 |
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| 事柄に対する応答は、表面的なものに終わります。 |
| 語る事柄の奥にあるその人の気持を受け取って初めて、相手の心に届く言葉を発 |
| することが出来ます。 |
| 具体的にその人を助ける働きが出来るでしょう。 |
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| たとえ困難な状況は変わらなくても、自分の気持ちを分かってくれる人が傍らに |
| いてくれれば、耐えることが出来ます。 |
| 分かってもらえた、という安堵が生まれるのです。 |
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| ミッシェル・クオストの「神に聴くすべを知っているなら」という祈りの本に、 |
| 「でんわ」という祈りがあります。 |
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| わたしは受話器をおいて考えた、なぜかれはわたしに電話した |
| わからない・・・ああ主よ、そうですか |
| わたしはしゃべりすぎて、聴こうとしなかった。 |
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| 主よ、お赦しください、いまのは対話ではなく一方通行でした |
| わたしが自分の考えをしゃべりまくっただけで |
| かれの考えを聴こうとしませんでした |
| わたしが聴こうとしなかったから、かれからなにも得なかったのです |
| わたしが聴こうとしなかったから、かれを助けてやれなかったのです |
| わたしが聴こうとしなかったから、かれの心が通じなかったのです。 |
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| 主よ、お赦しください、せっかくつながっていたのに |
| わたしたちは、きりはなされてしまいました。 |
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| ●苦しくならないように |
| 愛は、相手の話を聴くことから始まります。 |
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| 話を聴く人は、相手の感情に自分が巻き込まれて自分が苦しくなってしまわない |
| ことが大切です。 |
| 自分が苦しくなると、相手の話を聴くことが苦痛になります。 |
| ついには聴くことを拒絶するようになるでしょう。 |
| 自分の心の平和も失われてしまいます。 |
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| 私達は願います。 |
| 相手の言葉の奥にある心の痛みを聴き取ることが出来ますように。 |
| その痛みを共にしながら、一緒に並んで神様に向いていくことが出来ますように。 |
| 神様の愛に浸ることが出来ますように。 |
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| そのようにしてわたしとあなたが結ばれる時、キリストの平和がそこに実現する |
| のです。 |
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| ●キリストの言葉が宿るように |
| キリストの愛を着させていただくために、キリストの言葉を心の内に豊かに宿る |
| ように務めましょう。 |
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| 宿る、ということは、もともと私達の心の内には無い、ということです。 |
| キリストの言葉は、外から来るのです。 |
| 宿る、ということはそこに留まるということです。 |
| 来たけれどすぐにまた出て行ってしまうのではありません。 |
| 心の内にキリストの言葉が豊かに宿るならば、キリストの言葉で一杯になります。 |
| 一杯になるほどに、ぐるぐると自分の中で思い巡らしていた考えが取り去られ、 |
| 思い煩いや不安が小さくなっていきます。 |
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| 頭の中にではなく心の内に聖句を刻みましょう。 |
| 心の内に宿ったキリストの言葉は、たまらなく不安になった時、フッと、心に浮か |
| んできて、生きる力になってくれます。 |
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| ●教え諭す |
| さらに、今日の聖書は「知恵を尽くして互いに教え、諭し合いなさい」と勧めて |
| います。 |
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| 自分が持っている人間の知恵で、教え諭すのではありません。 |
| 「知恵を持って」とは「すべての愛をもって」ということです。 |
| 相手のことを理解し大切に思う時、相手が受け取ることができるように配慮しな |
| がら言葉を選んで語り合い、互いに教え諭し合うことが出来ます。 |
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| ところで、13節の「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いな |
| さい。」 |
| と、「互いに教え合い諭し合う」とは、相反することではないかと思われるでし |
| ょうか。 |
| そうではありません。 |
| この二つは同時に行われることです。 |
| その人に責めるべきことがあっても、何もせずに黙って見過ごすことは愛では |
| ありません。 |
| 教え諭すことが、愛です。 |
| 自分の過ちに気付いて初めて正され、赦されたことが感謝になるのです。 |
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| でも教え諭すには勇気がいります。 |
| 相手を傷つけ、自分も傷つくかもしれないのです。 |
| 互いに忍び合い、赦し合う中で、互いに教え諭すことが行われていきます。 |
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| ●身近に居る人と |
| 身近に居る人達と愛によって結び合わされていきますように。 |
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| 18節以下には、身近にいる人に対してどのようにしていったらいいかが具体的 |
| に記されています。 |
| 夫婦、親子、奴隷と主人の関係のあり方についてです。 |
| 一方の人に言っているのではありません。 |
| 双方に言っています。 |
| 互いに相手を大切に思って生きるのです。 |
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| ●主イエスの名によって |
| 締めくくりとして、17節に |
| 「3:17そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、 |
| イエスによって、父である神に感謝しなさい。」 |
| と勧められています。 |
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| 私達はいつも身近に居る人達と話したり、何かをしています。 |
| いつも自分の考えで言ったりしたりしています。 |
| いちいち、イエス様のことを思って言ったりやったりしているわけではありません。 |
| いちいち、これはイエス様に適うことかと考えていたら、何も言えなくなります。 |
| 何も出来なくなります。 |
|
| また、自分の考えや行いをキリストの名によって正当化してはいないでしょうか。 |
| 「聖書にこう書いてあるじゃないか」と相手を責めることに御言葉を使ってはなり |
| ません。 |
| 慰めるつもりで聖書の言葉を言っても、相手にとって慰めになるどころか針のよう |
| に心につき刺さることもあります。 |
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| すべてを主イエスの名によって行うということは、主がわたしの言葉と行いを導い |
| てくださることを祈り願うことです。 |
| 間違うこともたくさんあります。 |
| そのことも主に委ねる、主の赦し、執り成しに委ねていくのです。 |
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| 私達の主イエス・キリストは憐れみに満ち、慈愛、謙遜、柔和、寛容なお方です。 |
| 私達の罪、過ちを忍び、私達が受けるべき責めをご自分が負われ、命をかけて赦し |
| てくださったお方です。 |
| このキリストの愛と赦しを着せていただいて生きることが、「何を話すにせよ、 |
| 行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行う」ことなのです。 |
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| 主イエスの名によって生きる時、自由に軽やかに生きることができるでしょう。 |
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| ●結語 |
| キリストの平和が私達の心を支配してくださいます。 |
| 感謝がわき上がってきます。 |
| 心から神様をほめたたえます。 |
|
| 神様の愛が、すべてを完成させるきずなとなってくださっています。 |
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