| <メッセージ> |
| ●「君は愛されるため」 |
| 私達は今「手話で歌おう」で「君は愛されるため」という歌を歌っています。 |
| この歌の愛は神様の愛でしょう。 |
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| 神様の愛は永遠で、すべての人に注がれています。 |
| その神様の愛が、人と人との出会いの中で出来事となっていくのです。 |
| 『君の存在がわたしにはどれほど大きな喜びでしょう』と歌います。 |
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| けれど私達は誰に対しても、そう言えるでしょうか。、 |
| そう言うべきだ、ということは分かっています。 |
| でも、そうは言えない相手もいるのが、本当のところでしょう。 |
| 人間には限界があります。 |
| 誰に対しても、そう言うことが出来ません。 |
| そう言うためには自分の命を捨てる覚悟が必要です。 |
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| どんな人に対しても、自分に敵対し亡き者にしようと迫ってくる人にも『君の |
| 存在がわたしには大きな喜びです』と言うことの出来る方が、ただ一人おられ |
| ます。 |
| イエス・キリストです。 |
| イエス様は、すべての人を愛し、すべての人を救うために、十字架にかかりご |
| 自分の命を捨てられました。 |
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| ●幾らかでも |
| 人間には限界があります。 |
| ですから、パウロは言うのです。 |
| 「 2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、 |
| “霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」 |
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| 日本語訳では「幾らかでも・・・あるなら」が1回だけですが、原文では「幾ら |
| かでも、キリストにある励まし」「幾らかでも愛の慰め」「幾らかでも霊の |
| 交わり」「幾らかでも慈しみと憐れみ」と、4回も繰り返されているのです。 |
| 切なる願いが伝わってきます。 |
| これはパウロを通して語られる神様の願いでもあります。 |
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| キリストにある励まし、愛の慰め、霊の交わり、慈しみと憐れみ―これらは、 |
| 私達自身が持っているものではありません。 |
| 神様からいただくものです。 |
| キリストがわたしを励ましてくださっている。 |
| 神様の愛をいただいてわたしは慰めを得ている。 |
| 聖霊がわたしに働きかけてくださっている。 |
| 私達は神様から慈しみと憐れみをいただくのです。 |
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| 神様の慈しみと憐れみは、誰にでも溢れるばかりに注がれています。 |
| それなのに、その愛に気付きその愛を受け取ることの何と少ない者でしょうか。 |
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| ●同じ思いに |
| パウロは、「たくさん」と言いません。 |
| 「幾らかでも受け取っているならば」と言います。 |
| 「2:2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わ |
| たしの喜びを満たしてください。」 |
| と言います。 |
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| 運河教会が、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにす |
| ることが出来ますように。 |
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| ●「思いを一つする」とは |
| 教会が思いを一つにするということは、みんながみんな同じ考えになること |
| ではありません。 |
| 一色に染まることではありません。 |
| 強い意見に支配され縛られて一つになることではありません。 |
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| 人は一人一人が違うのです。 |
| わたしと同じ人は一人もいません。 |
| 全員が違う。 |
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| それなのに、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに |
| することが出来るのは、ただお一人のお方イエス・キリストを仰ぐことにお |
| いてです。 |
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| わたしは、神様の慈しみと憐れみによって生かされている。 |
| あなたも、神様の慈しみと憐れみによって生かされている。 |
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| 互いに同じ主イエス・キリストを仰ぐことによって、一つにされていくの |
| です。 |
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| ●具体的な生き方 |
| それでは、具体的にどのように生きればいいのでしょうか。 |
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| 「2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに |
| 相手を自分よりも優れた者と考え、 |
| 2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」 |
| と勧められています。 |
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| ●利己心、虚栄心 |
| まず「利己心や虚栄心からするのではなく」とあります。 |
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| 「利己心や虚栄心からする」は自分が中心です。 |
| 人は誰しも、自分を中心にしてしか、ものを見たり考えたりすることが出 |
| 来ません。 |
| ですから、自分がしていることが、利己的であるとか、虚栄心から出てい |
| るとは思わないのです。 |
| 自分は人のためにやっている、自分は正しいことをやっている、と思って |
| います。 |
| でも、心の奥底に利己心や虚栄心が潜んでいるのではありませんか。 |
| 利己心や虚栄心があるのに気付かないほどに、私達は自分中心なのです。 |
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| ●「へりくだる」 |
| 「利己心や虚栄心からする」の反対のこととして「へりくだって相手を自 |
| 分より優れた者と考える」ことがあげられています。 |
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| このことは、ほっておいて自然に出来ることではありません。 |
| 自分中心の視野に、他者が入ってきます。 |
| その他者に対して、自分がへりくだる、ということは出来にくいことです。 |
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| ●比較ではない |
| 「相手を自分より優れた者と考えなさい」という言葉には注意が必要です。 |
| 自分と相手を比較して優劣をつけると理解してはなりません。 |
| 自分の価値を他人との比較において決めるのではないのです。 |
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| 自分の価値を他人との比較で決めるとき起こってくるのは、他者に対する |
| 優越感か劣等感かのどちらかです。 |
| 優越感と劣等感は正反対のものと思われますが、実は同じものです。 |
| 他人と比較して自分を見る、という点において、同じものから発生する感 |
| 情です。 |
| |
| 「相手を自分より優れた者と考えなさい」とはそういうものではありません。 |
| |
| 相手を自分より優れた者と考えることによって、自分が揺り動かされるこ |
| とはないのです。 |
| わたしの存在の価値は神様にあるからです。 |
| 神様は、「わたしの目に、あなたは価高く貴く、わたしはあなたを愛して |
| いる」と言ってくださっているのです。(イザヤ43:4) |
| ですから、安心して、素直に、相手を自分より優れた者と考えることがで |
| きるのです。 |
| 無理して、「へりくだらなけらば」とがんばることはありません。 |
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| ●他人のことにも |
| 続いて |
| 「2:4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」 |
| と言われています。 |
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| 自分のことについては、ごぐ自然に考えています。 |
| けれど他人のことに注意を払うことは、意識しないと出来ません。 |
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| それはまず、ほかの人の存在に気付くことから始まります。 |
| マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」と言いました。 |
| まず、ほかの人に目を注ぐのです。 |
| 自分から見て、その人のことを考えます。 |
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| けれど私達はさらに先に進みたい。 |
| 自分からその人を見るのではなく、その人になって物事を見ることが出来 |
| るようになりたいです。 |
| そうするためには努力が必要です。 |
| 私達は完全にその人と同じにはなれません。 |
| けれど努力を積むことによって、少しずつその人が見ているように自分も |
| 見ることが出来るようになるでしょう。 |
| その人についての理解が深まっていきます。 |
| |
| その様にして、めいめいが互いに相手を理解する時、それぞれの違いを認 |
| め合いながら、一つにされていくのです。 |
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| ●キリストに目を向ける |
| パウロは、これらのことを心がけている私達の目をキリストに向けるよう |
| にと促します。 |
| パウロを通して神様が促しておられます。 |
| 「2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられ |
| るものです。」 |
| と促されます。 |
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| ●キリスト |
| 「2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固 |
| 執しようとは思わず、 |
| 2:7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられまし |
| た。人間の姿で現れ、 |
| 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」 |
|
| イエス様はキリスト・救い主として生きられるのを前に、一人荒野に行かれ |
| ました。 |
| そこでイエス様に問われたことは、神の身分であることを表して人々を救う |
| かどうか、ということです。 |
| イエス様は石をパンに変えることがお出来になりました。 |
| 高いところから飛び降りても無傷でいることが出来ました。 |
| 世の力を利用することも、お出来になりました。 |
| けれど、イエス様はそれらに対して「ノー」と言われたのです。 |
| 神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって御自分を無にし |
| て、人間と同じ者になられました。 |
|
| イエス様は十字架を避けることもお出来になりました。 |
| イエス様を捕らえようと人々がやって来た時、 |
| 「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍 |
| 団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 しかしそれでは、必ずこ |
| うなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイ26 |
| :53) |
| と言っておられます。 |
|
| この直前、イエス様は |
| 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、 |
| わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 |
| と祈られたのでした。 |
| イエス様は死に至るまで、それも十字架の死に至るまで神様に従順であら |
| れました。 |
| |
| イエス様は神の身分でありながら、最も低いところまで降られたのです。 |
| すべての人間のさらに下に居て、一人も洩らさず救い上げてくださるため |
| です。 |
| |
| ●愛を受けている |
| すべての人々のためにご自分を捨ててまで救ってくださるのは、イエス様 |
| だけです。 |
|
| 私達はイエス様のようには出来ません。 |
| 自分の命を捨ててまでへりくだることが出来ません。 |
| 自分にとって大切な人については、命を捨てるほどに愛するということが |
| あるでしょう。 |
| でもすべての人に対して同じ愛を注ぐことが出来ないのです。 |
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| そんな私達にも、イエス様は十字架の愛を注いでくださっています。 |
| ですから、イエス様の愛に応えて生きていきたいです。 |
| 出会う人々に注意を払い、愛を注ぐことの出来る者になりたいです。 |
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| ●今の世界 |
| 今、世界は、利己心や虚栄心に支配されているように見えます。 |
| 自分のことだけ考えて他人のことには注意を払わないのです。 |
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| これは国の指導者だけの問題ではありません。 |
| その指導者に賛同し、選んだのは多くの人々です。 |
| 世界の人々が利己心や虚栄心に支配されてきているように思います。 |
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| ●世に立つ教会 |
| この世界のただ中に、教会は生きています。 |
|
| 教会は、世にあってすべての民の祝福の源となるように選ばれた群です。 |
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| 教会は、ただお一人のお方、キリスト・イエスを仰ぐことによって、思い |
| を一つにさせていただきます。 |
| キリストによって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自 |
| 分のことだけでなく、他人のことにも注意を払うようにされていくのです。 |
|
| 教会は、そうあることによって、すべての人々の祝福の源となるのです。 |
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| ●すべての舌が賛美する |
| 「 2:9 神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになり |
| ました。 |
| 2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの |
| 御名にひざまずき、 |
| 2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父 |
| である神をたたえるのです。」 |
| とあります。 |
| |
| 教会は、すべてのものが、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、 |
| 「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるた |
| めに、この世に立たされているのです。 |
|
| ●まとめ |
| 今日の聖書は「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰 |
| め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、」 |
| という言葉で始まりました。 |
|
| キリストが私達一人一人を励ましてくださっています。 |
| 神様の愛をいただいて私達一人一人は慰めを得ています。 |
| 聖霊が私達一人一人に働きかけてくださっています。 |
| 私達一人一人は神様から慈しみと憐れみをいただいているのです。 |
|
| 共にキリストだけを見つめていきましょう。 |
| 「2:6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固 |
| 執しようとは思わず、 |
| 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられまし |
| た。人間の姿で現れ、 |
| 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」 |
|
| ●結語 |
| キリストを仰ぐとき、私達は心を合わせ、互いに同じ愛を抱いて、一つの |
| 思いへと導かれていきます。 |
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