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| <メッセージ> |
| ●新約聖書の最後 |
| ヨハネの黙示録の最後に来ました。 |
| 黙示録の最後というだけではありません、新約聖書の最後です。 |
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| 運河教会の伝道師、牧師となって18年、毎週の礼拝で、マタイによる福音書 |
| 1章1節から初めて、新約聖書の全部を漏らさず語ってきました。 |
| 今日最後の箇所に来て、とうとうやり終えたという深い感慨があります。 |
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| しかしこれは私という牧師個人がなした、というものではありません。 |
| これは運河教会が成し遂げたことです。 |
| 礼拝においてなされることは、個人のわざではなく教会のわざです。 |
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| 説教者と会衆は向かい合って座っていて、説教者は語り会衆は聞いていると |
| いう形なっていますが、説教者も会衆も実は同じ方向を向いています。 |
| 説教者は神の語られることを聞いてそれを伝えるのです。 |
| ですから、説教者も会衆も共に神に向かい、神様の語られることを聞いている |
| のです。 |
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| 私達は−運河キリスト教会という群れは、新約聖書の最初から最後まで漏らさず |
| 神の語られることを聞いてきたのでした。 |
| 今日それが達成されました。 |
| 運河教会がなしたことです。 |
| 感謝なことです。 |
| 恵みに溢れる時を共に過ごすことが出来ました。 |
| 共に喜び、共に主を賛美したいと思います。 |
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| ●御言葉を先立てる |
| 聖書を順番に読んでいくということは、御言葉を先立てるということでありました。 |
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| 今日の箇所の18節には |
| 「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加え |
| る者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この |
| 預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の |
| 木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」 |
| とあります。 |
| 聖書の言葉に付け加えてはならないし、聖書の言葉から取り去ってもいけない、 |
| と厳しく命じられています。 |
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| 説教の聖書箇所を説教者が選ぶならば、そこにはいつも危険が伴います。 |
| もちろん語る者は祈って、神様に示されてその箇所を選ぶわけですけれども、それ |
| でもそこに自分の思いが紛れ込む危険があります。 |
| こういうことをみんなに語りたいと思ったり、語りやすい箇所、自分の好みの箇所を |
| 選ぶということがあり得るのです。 |
| それは自分の思いを付け加えることになるでしょう。 |
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| 一方、一度も触れない聖書の箇所があるということも起こります。 |
| それは聖書の中から御言葉を取り去ることでしょう。 |
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| 聖書を順番に読んでいくということは、まず最初に聖書の言葉があるということです。 |
| その言葉を聞いて、語るのです。 |
| 説教の準備の前には、私は必ず「語る言葉を与えてください」と祈ります。 |
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| いつもまず聖書の御言葉がありました。 |
| 「ここからどうやって福音を語るのか」と思う箇所にも幾度も出会ってきました。 |
| そのような時、いつもいつもキリストの十字架が示されます。 |
| キリストの十字架を通して語る言葉が与えられるのです。 |
| 聖書のどの箇所からも十字架のキリストの声が聞こえてきます。 |
| キリストの十字架から読めば、聖書のどの箇所からでも福音を語ることが出来る、 |
| それが私の実感です。 |
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| 説教は説教者の作文ではありません。 |
| 説教者を使って神ご自身が神の言葉を語られる−それが説教です。 |
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| ●神は遣わされる |
| 神様は人を用いられます。 |
| 16節には |
| 「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証し |
| した。」 |
| とあります。 |
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| 天使も預言者達も、幻を見て黙示録を書いたヨハネも、キリストが遣わされた使い |
| です。 |
| すべての教会−キリストを信じる人達は、すべての人々がキリストの証しを聞くた |
| めに用いられる者です。 |
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| 礼拝においてキリストは私達にご自身を証しされます。 |
| 私達はそれを聞きます。 |
| そして私たち一人一人がキリストの証しをする者としてこの世に遣わされていくの |
| です。 |
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| ●ダビデのひこばえ |
| キリストはご自分を表わして言われます。 |
| 「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」 |
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| イスラエルの民はどんなに長い間ダビデの末から現われるメシア・救い主を待ち |
| 望んでいたことでしょうか。 |
| 待ち望みながら生きる民の生き様はまさに暗闇でした。 |
| その有様が旧約聖書に記されています。 |
| 毎週の祈祷会では旧約聖書を1章ずつ読み進めていますが、つくづく思わされる |
| のは、旧約聖書は神様から離れて生きる人間の生き様をこれでもかこれでもか |
| と書き連ねているということです。 |
| そしてそこに記されている様は、現在の私達の生き様と全く同じなのです。 |
| 神様を離れ暗闇の中に生きる人間は、昔も今も変わっていません。 |
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| ●明けの明星 |
| その暗闇に明けの明星が輝き出す。 |
| あたりはまだ真っ暗です。 |
| その中にたった1つ輝く星、その星は夜明けが近いことを告げ知らせるのです。 |
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| 今がどんなに暗くても、もう永久に夜は終わらないのではないかと思う時でも、 |
| 明けの明星は告げます「もうすぐ朝が来る」。 |
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| まっ先に明けの明星を見つけるのは、霊と花嫁です。 |
| 花嫁とは教会のことです。 |
| 明けの明星を真っ先に見つけた霊と花嫁は言います。 |
| 「来てください」 |
| その声を聞いた人達が言うのです。 |
| 「来てください」 |
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| その声は水の波紋のように全世界に広がっていきます。 |
| すべての人達が言います。 |
| 「来てください」 |
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| ●私達 |
| 今礼拝で黙示録を読んでいる私達は花嫁です。 |
| 最初に「来てください」と言う者として今ここに置かれています。 |
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| 私達は今言います。 |
| 「来てください」 |
| その声は全世界に広がっていくでしょう。 |
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| ●命の水 |
| 「来てください」と言う私たち、そしてすべての人達に応えるキリストの言葉が |
| 聞こえてきます。 |
| 「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」 |
| 21章6節にもあった言葉です。 |
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| キリストは来られて、招いてくださいます。 |
| 私達は渇いています。 |
| 人類は何と長い間、渇いていたことでしょうか。 |
| でもついにキリストは来られて、命の水を飲ませてくださるのです。 |
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| ●値なしに |
| この水を飲むために代価を払わなければならないのではありません。 |
| 価なしに、ただで飲ませていただけるのです。 |
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| ただであるということを人はどのように思うでしょうか。 |
| ただなら何でももらっておこうという思いと、ただのものなんて大して値打ちが |
| ないだろうという思いとが起こります。 |
| この世の中は、お金で価値をはかる世界です。 |
| 値段を高くつけた方が高級に思われるということで、わざわざ高い値段をつけると |
| いうこともあります。 |
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| ただで飲める命の水は価値がないのでしょうか。 |
| とんでもありません。 |
| 人はどんなにお金を積んでも、どんなに良い行いを積み上げても、命の水を手に |
| 入れることは出来ないのです。 |
| 人は決して自分の力で命の水を手に入れることは出来ません。 |
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| ●キリストが代価を払われた |
| その命の水がただで飲めるのはなぜか。 |
| それはキリストがその代価を払ってくださったからです。 |
| キリストがご自分の命を支払ってくださったので、私達はただで命の水をいただく |
| ことが出来るのです。 |
| 何と高価な、貴い命の水でしょうか。 |
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| 今、誰でも渇いている者は命の水を飲むことが出来ます。 |
| キリストが来てくださいました。 |
| 十字架にかかって私達の命の代価を支払ってくださいました。 |
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| 主イエスはスカルの泉でサマリヤの女に言われました。 |
| 「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内 |
| で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 |
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| ●主は再び来られる |
| 私達の主イエス・キリストは人となってこの世に来られました。 |
| 十字架にかかってすべての人々の罪を贖ってくださいました。 |
| 主は復活され、天にのぼられました。 |
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| その主イエス・キリストが再び来てくださるのです。 |
| 主イエスは言われます。 |
| 「然り、わたしはすぐに来る。」 |
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| その言葉に応えて私達は言います。 |
| 「アーメン、主イエスよ、来てください。」 |
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| 「主イエスよ、来てください」 |
| 私達は主イエスの来られるのを待ち望んでいます。 |
| むなしく待ち望んでいるのではありません。 |
| 主イエスの方から「わたしは来る」と言っておられるのです。 |
| 私達は今来つつあるキリストを待ち望んでいるのです。 |
| 私達の希望がむなしく終わることは決してありません。 |
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| ●マラナ・タ |
| パウロはコリントの教会の信徒達に手紙を書いて、その締めくくりに |
| 「マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。」 |
| と記しています。 |
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| マラナ・タというのは「主よ来てください」と言う意味です。 |
| 聖餐式で私達はよく「マラナ・タ マラナ・タ 主の御国が来ますように」と賛美します。 |
| 今日も歌います。 |
| 私達はパウロと共に、黙示録の教会の人々と共に、そしてこの言葉を聞くすべての |
| 人達と共に、「マラナ・タ(主よ、来てください)。」と言うのです。 |
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| ●新しい歩み |
| 今日は2014年度最初の礼拝です。 |
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| 新約聖書最後の言葉「「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来て |
| ください。」 |
| この言葉を、私達は新年度最初の礼拝で聞いています。 |
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| 私達はまた新しく歩み始めます。 |
| 主イエスの「然り、わたしはすぐに来る。」という言葉を聞き |
| 「アーメン、主イエスよ、来てください。」と答えながら、この一年を歩んでいきます。 |
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| これから先もずっとずっと主が再び来たり給うその日まで、歩んでいきます。 |
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| ●結語 |
| 「然り、わたしはすぐに来る。」 |
| 「アーメン、主イエスよ、来てください。」 |
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