| <メッセージ> |
| ●人とは何ものか |
| 人とは何ものなのでしょうか。 |
| 『わたし、そして周りに居る人達、今、現にここに存在している人とは何ものなのか。』 |
| 人々が昔から問い続けてきた問いです。 |
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| ●自然科学 |
| 自然科学はこの問いを現象的な面から説明します。 |
| どのようにしてできたかという現象の過程を説明するのです。 |
| それに何の意味があるか、ということは取り扱いません。 |
| そういう意味では節度を持っている、と言うことができるでしょう。 |
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| 進化論という仮説が有名です。 |
| 人間という個体がどのようにして出来てきたのかを、現象面から説明しようと |
| したものです。 |
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| ●人間存在の意味 |
| しかし私達は、人とは何ものかということを生物として現象面だけで説明されても、 |
| 『それで納得した』とは思えないでしょう。 |
| 人とは何ものか。 |
| それはもっともっと深い問いです。 |
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| 聖書は、人とは何ものかを本質的な意味で説明します。 |
| 人間が存在することに何の意味があるかを、聖書は説明するのです。 |
| 自然科学とは異なるテーマをあつかっています。 |
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| ●科学と宗教の衝突 |
| これまでの歴史において、現象的説明と聖書的な表現が衝突したのは、不幸な |
| 出来事でした。 |
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| 中世においては教会がガリレオやその他の科学者を迫害しました。 |
| 現代においては、学校教育で進化論が正しいと教えられています。 |
| 子供達は学校で教えられることはすべて正しいと受け取ります。 |
| 学校で教えることの外に、はるかに大きい領域があることを知りません。 |
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| ●北森嘉蔵 |
| 私達より一世代前に活躍された神学者に、北森嘉蔵という方がおられます。 |
| 「神の痛みの神学」で有名な方です。 |
| この方が、朝日カルチャーセンターでなさった聖書講話の中でこのようなことを |
| 言っておられます。 |
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| 「もし自然科学の説明方法と聖書の表現様式とが、同じ表通りの電車だといたし |
| ますと、これは衝突するのです。 |
| 同じレールを一方は東、一方は西に進むということになると正面衝突することに |
| なるのです。だから衝突しないためには、どちらかをなくさなければならない。自 |
| 然科学を受け入れるといたしますと、聖書の信仰は消えてなくならなければなら |
| ないし、聖書を受け入れるとすれば、自然科学を拒否するということになるの |
| です。」 |
| そして |
| 「聖書を受け入れることは非科学的になることを求められることなのだろうか、 |
| 科学の現象的説明を拒絶しなければ聖書を受け入れることにならないのだろう |
| か、」 |
| と言われ、 |
| 「現象的説明としては、生物進化論の仮説を受け入れて少しもさしつかえないの |
| です。・・・つまりキリスト教信仰に入ることと、自然科学を受け入れることとは両立 |
| させなければいけないのです。」 |
| と言っておられます。 ( 「創世記講話」 北森嘉蔵 教文館 ) |
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| ●聖書が語るもの |
| 私達は、聖書が何を取り扱っているかをはっきりと認識している必要があるで |
| しょう。 |
| 聖書は現象の課程を語っているのではありません 。 |
| ものごとの本質を教えているのです。 |
| そのものの意味を語っているのです。 |
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| このことをよくわきまえて創世記を読んでいきたいと思います。 |
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| ●聖書が語る「人」 |
| 聖書ほど、人は何ものであるかを深く深く語っているものはありません。 |
| 私達は聖書を読んで初めて、人とはどのようなものであるかを知ることができる |
| のです。 |
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| 聖書は語ります。 |
| 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き |
| 入れられた。人はこうして生きる者となった。」 |
| まことにその通りです。 |
| 息がなくなると肉体は土に帰ることは、すべての人が知っていることです。 |
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| 詩編104編には |
| 「御顔を隠されれば彼らは恐れ |
| 息吹を取り上げられれば彼らは息絶え |
| 元の塵に返る。 |
| あなたは御自分の息を送って彼らを創造し |
| 地の面を新たにされる。」 |
| とあり |
| 詩篇90編にも |
| 「あなたは人を塵に返し |
| 「人の子よ、帰れ」と仰せになります。 」 |
| とあります。 |
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| 土の塵で人が形づくられ、その鼻に命の息を吹き入れられて生きる者になる、 |
| というのは私達の経験に合致していて本当にその通りとわかります。 |
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| 人は神様に命の息を吹き入れていただいて生きる者になるのです。 |
| 今呼吸しているその一息一息が、神様の命をいただいていることです。 |
| 私達は神様によって生かされているのです。 |
| 神様は人をご自分の命を分かちあうものとして造られました。 |
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| ●神と人の関係 |
| 神様と人とがどのような関係の中に置かれているかが、エデンの園の物語に |
| 記されています。 |
| 神様は人をエデンの園に置かれました。 |
| そこには見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木がありま |
| した。 |
| 人は食べることに心配しなくていいのです。 |
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| イエス様が山上の説教で言われた言葉を思い出します。 |
| 「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 |
| ・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことを |
| ご存じである。 |
| 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな |
| 加えて与えられる。」 |
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| 人はもともとは何も思い煩わなくてよいようにしていただいていたのです。 |
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| ●善悪の知識の木 |
| 神様は園の中央に、命の木と善悪の知識の木を置かれました。 |
| 神様は人に命じて言われます。 |
| 「園のすべての木から取って食べなさい。 |
| ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んで |
| しまう。」 |
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| 善悪の知識というのは、道徳的な善悪のことではありません。 |
| 道徳的な意味であれば、何が善で何が悪であるかを知ることは良いことです。 |
| 善悪のけじめがつくから、人は自分の行動を制御することが出来るのです。 |
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| ここの箇所では善と悪は対の言葉として使われています。 |
| 善と悪で「すべて」という意味を持ちます。 |
| 善悪の知識の木の実を食べるということは、全知全能になることです。 |
| 人間が神になることです。 |
| ですから厳しく禁じられているのです。 |
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| ●なぜ? |
| ここで疑問が湧いてくるかもしれません。 |
| 神様はなぜ食べてはいけない木をわざわざエデンの園に置かれたのか、という |
| 疑問です。 |
| そんな木がなければ、気楽に生きられるのにと思います。 |
| 3章になって人は善悪の知識の木の実を食べてしまいます。 |
| そんな木を神様が置いておかなければ、人は罪を犯さなくて済んだのに、 |
| と思うのです。 |
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| ●信頼のしるし |
| この木は神様の人に対する信頼のしるしなのです。 |
| 人間関係について考えてみましょう。 |
| 人と人との間で最も大切なものは何でしょうか。 |
| それは信頼です。 |
| お互いに相手を信頼できる時、お互いがしっかりと結ばれ、安心していられます。 |
| そして信頼するということが起こるのは、その人が自由で、自発的にことをなす |
| ことが出来る時です。 |
| 一方が他方を支配していたり、相手の言うとおりに動くしかないならば、自由も |
| 自発性もありません。 |
| ここには信頼関係は生まれません。 |
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| このことから神様と人との関係もわかってきます。 |
| 神様は人をロボットとして造られたのではありません。 |
| 自由意志を持たず、ただ神様の言うとおりに動くものとして人を造られたのでは |
| ありません。 |
| 人格を持つ存在として造られました。 |
| 自由意志を持ち、自発的に行動することができる者として造られたのです。 |
| ですから神様と人との間には愛が生まれ、信頼という固い絆で結ばれることに |
| なるのです。 |
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| ●神の信頼 |
| 神様は人を信頼されました。 |
| 人は神を信頼して神の言葉に従ってくれると、人を信頼されたのでした。 |
| 人は善悪の知識の木を食べるようなことはしないと、人を信頼されたのです。 |
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| 皆さんは家でお財布をいつも鍵のかかった引き出しにしまっていますか。 |
| たぶんそうはしないでしょう。 |
| それは家の人がとることはない、と信頼しているからです。 |
| 疑いを持っていたら、とれるところに置いておきはしません。 |
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| 神様は善悪の知識の木を人がとれるところに置かれました。 |
| 人はとることはないと信頼しているからこそ、そうされたのです。 |
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| ●エデンの園に帰る |
| エデンの園の物語は、神様と人が信頼で結ばれていることを物語っています。 |
| もともとは神様と人とは愛と信頼で結ばれていたのです。 |
| 豊かで、暖かく、明るく、平安に満ちた関係でした。 |
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| 今人間達はどうでしょうか。 |
| 人は何でも出来る、と人が全知全能であるかのように思い込んでいます。 |
| 神様の存在を否定します。 |
| 神様と人との信頼関係はこわれてしまいました。 |
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| 私達自身も、神様を信じていると言いながら、疑う心が起こってきたり、 |
| 神様を信頼しきれず自分の思いで動くことが、何と多いことでしょうか。 |
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| 人はもともとはエデンの園に描かれているような神様との信頼関係の中で平和 |
| に生きていたのでした。 |
| 私達はそこに帰りたいです。 |
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| ●黙示録 |
| 聖書は帰ることが出来ると約束してくれています。 |
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| 私達は礼拝で、すでにヨハネの黙示録を読みました。 |
| そこにはやがて来る神の都が描かれていました。 |
| その都の中央には、水晶のように輝く命の水の川が流れていました。 |
| そしてその両岸には命の木がありました。 |
| ここに描かれているのはエデンの園と同じ情景です。 |
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| 私達はエデンの園に帰ることが出来るのです。 |
| 神様と人とが愛と信頼によってしっかりと結ばれる関係に戻ることが出来るの |
| です。 |
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| イエス・キリストは人を神様のもとに連れ帰るために、この地上に来てください |
| ました。 |
| 人が犯した罪をすべて負って十字架にかかってくださることによって、帰る道を |
| 開いてくださったのです。 |
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| ●結語 |
| 神様は人を信頼しておられます。 |
| 必ず神様のもとに帰ってくると、信頼して待っていてくださいます。 |
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| 私達は神様の信頼に応えなければなりません。 |
| 再び神様の信頼を裏切るようなことがあってはなりません。 |
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| キリストによって開かれた道を通って私達は帰っていくのです。 |
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| そこは豊かで、暖かく、明るく、平安に満ちています。 |
| 私達は再び神様との信頼関係の中に生かしていただけるのです。 |
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